コミュニケーション

「自分の頭で考えろ」と言ってしまう人が「考えること」を指導するときに意識した方がいいこと。

自分の頭で考えろ

新人や後輩の指導経験のある人ならば、一度は言ってしまったことがあるフレーズではないだろうか。

例えば、新人に「協力会社への見積もり依頼」を業務として任せたとする。

ところが、その新人は見積もり依頼をするのははじめてで、何から手をつけたらいいのかサッパリ分かっていない。

だから、新人は事あるごとに「これはどうすればいいんですか?」とあまり考えずに聞いてくる。

そうすると「聞かないよりはいいけど、少しは自分の案を考えてこいよ」と思ってしまう。

このようなシーンで、つい言ってしまうフレーズが「自分の頭で考えろ」だ。

新人や若手に「自分の頭で考えろ」というコミュニケーションはもってのほか

しかし「自分の頭で考えろ」と言ったところで、相手に「自分の頭で考える力」が育っていない場合、期待する成果は一向に出てこない。

中には、新人の頃から自分で考えて上司の期待する成果を出せる人もいる。

でもそれは指導方法が良かったからではなく、もともとその人の「自分の頭で考える力」が育っているだけだ。

基本的に「自分の頭で考える力」については「教育」が効果をあげていない。

私たちは生徒たちに対し、自分では思考をせずに、テストの問題作成者が作った道に続くことだけを考えるよう教えている

全ての答えには正しい答えが一つだけあるということ、その正解をどこかの誰かが既に知っているということ、そしてこうした人たちが自分に望む解答を学ぶために学校に行くのだということを教えてしまっているのだ。

これは何も教育分野で目新しい問題ではないが、現在に至るまで強化され続け、幼稚園から高校に至る全課程に組織的に組み込まれ、よりいっそう奨励されている

これにより、自立した思考に対する意欲がそがれた世代が生まれたとしても、驚きではない。

参照:「自分で考えられない」若者 思考力を奪ったのは誰か?

メンタリストDaiGoさんは、コロナ禍の人々の行動をみて、こんなツイートをされていた。

まさに教育が効果を上げていないことを露呈している事象だ。

また、企業の中枢でも「自分の頭で考えない人」が増えていることに危機感を覚えているコンサルタントもいる。

私の知り合いの優秀な営業の方々も勉強熱心で、謙虚で、他の人の話をよく聞く、外見も中身も好感が持てる方々が多い。

 ところが一方では、社会人になって相当の年数がたっているにもかかわらず、全く学ぼうとしない、自分で考えようともしないという人たちもいる。

 しかも、結構な人数の人たちが、物事を深く考えないようだ。

 この点に私は危機感を覚えている。

 何が危機なのかというと、端的にいえば

 ・自分でモノを深く熟慮できない(考えられない)人が増えていて、そのような人たちが企業の中枢にもたくさんいる

 ということだ。

参照:自分で考えない人ほど「仕事ができる人」と勘違いされ、昇進する理由

このように「自分の頭で考える力が育っていない」は全体的な課題といえる。

だからこそ、業務経験のない新人や若手の「自分の頭で考える力」は「育っていない」と考える方が実態に近い。

思うに、新人や若手に向かって「自分の頭で考えろ」というコミュニケーションを取ることは、一部の優秀な人を除いてはもってのほか、なのだ。

私は幸いにも、前職でこのことに気づくことができた。

上長の「自分の頭で考えろ」で、辞表を出した同期

マーケティング会社に入って、私が2年目になったばかりのこと。

私の同期が異動で別のセクションに移った。

そのセクションの上長は、社内でもとかく企画力と実行力を備えた人で、会社に大きな貢献をしている「マーケティングプロデューサー」。

部下に対しては人一倍厳しい」ことでもよく知られている人だった。

同期はその人のもとに突然、就くことになったのだ。

自分の頭で考えろ」というフレーズを、よく耳にするようになったのはこの時からだった。

同期が「どうすればいいですか?」と聞けば「そんなのは自分の頭で考えろ」と言われる。

同期は「自分の頭で考えろ」と言われたので、考えてきたことを伝えると、今度は上司から「なんで?」「なんで?」と詰められる。

こんなやりとりが毎日のように続いていた。

同期は本当に辛そうな表情をしていて、様子を見ていた私の方も辛かった。

そんなある日のこと。

ニッチもサッチもいかないことに、フラストレーションを溜め続けた同期はついに「もう辞めます!」と上長に辞表を出したのだ。

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ところが結局、出した辞表は取りやめになった。

それから数日後。

同期は見違えるような表情で、生き生きと業務をしはじめた。

「自分の頭で考えろ」というフレーズもまったく聞こえなくなった。

あまりの変わりようを不思議に思った私は「一体何があったの?」と同期を尋ねてみた。

すると、

「俺、辞めるって言ったじゃん?」

「そのとき(上長と)はじめてがっつり話し合ったんだよね」

「それで、業務の進め方やコツは(上長が)ぜんぶ設計して教えてくれることになって、俺はそれに従って実行するってことになったんだ」

「それから、実行していくときに問題があれば逐一報告してくれと

報告してくれれば、問題に対しての対処法も逐一教えるからって言ってくれてさ」

「その通りやるようにしたら、いい感じに進むようになったんだよね」

と教えてくれた。

同期は、それから着々と成果を出すようになり、3年目の後半には「社内表彰を総取りする」くらいの実力者になっていた。

この時私は、「自分の頭で考える力」が育っていない人に向かって「自分の頭で考えろ」というコミュニケーションは御法度ということ。

そして「自分の頭で考える」から指導していく必要性を知った。

二人の近くの席にいなかったら、一生知ることはなかったかもしれない。

本当に運がよかった。

「考えること」の本質は「インプットをアウトプットに換えること」

しかし「自分の頭で考える」とは一体何なのだろうか?

そもそも「考えること(思考)」の本質はどこにあるのだろうか?

疑問を持った私は、書籍をいくつかあたってみることにした。

何冊か読み終えたあと。

たまたま知り合いの経営者の方から一冊の本を薦められた。

その本は、社会派ブロガーちきりんさんの「自分のアタマで考えよう」だ。

ちきりんさんは、本の中で「考えること(思考)」を「インプットをアウトプットに換えること」と定義している。

「考えること」「思考」とは、インプットである情報をアウトプットである結論に変換するプロセスを指します。

「私は考えた」というのは、「私はあるインプットをもとに、なんらかの結論を出した。ある考えに至った」という意味です。

それは仮の結論でもいいし、最初の段階では間違ったものかもしれません。それでも「その時点での結論を出した」というのが「考えた」ということです。

「私は考えた!」と言って、「じゃあ結論(=あなたの意見)はなに?」と聞かれたときに、なにも浮かんでこないのであれば、それはじつは考えていないのです。

つまり、いくらインプットをしても、アウトプットしなければ、それは「考えること」にはならない。

インプットしたものをインプットしたまま相手に伝えることも「考えること」にはならない、ということだ。

ちきりんさんは、インプットからアウトプットに至るまでのプロセスを提示し、より具体的に「考えること(思考)」を明らかにしている。

「考える」「思考する」とは、情報を集める作業でも、その情報の加工やグラフ化の作業でもありません。「集めて加工した情報を、どのように結論につなげるかという決めるプロセス」です。

私は膝を打った。これこそが「考えること(思考)」の本質だと。

ひいては「自分の頭で考える」の正体、だと思った。

このプロセスで、同期がうまくいかなかった理由も見えてきた。

・おそらく「情報収集」と「情報分析」を「考えること(思考)」として、上長に報告をしていたのではないか。

・あるいは「情報取集」や「情報分析」が不足していたばかりに、上長が求めるクオリティになっていなかったのではないか。

一方、上長と話し合った後、急激に成長していった理由も見えてきた。

・「情報収集」と「情報分析」を上長が担い、その後のプロセスに注力できることになったため、上長が求めるアウトプットが出せるようになった。ここで「考えること(思考)」のコツを知り、「考える力(思考力)」を育んだのではないか。

・何度も上長の「情報収集」と「情報分析」のクオリティを観ることができたので「ここまで準備すれば、思考ができる」ということを理解したのではないか。

つまり、「自分の頭で考える力」とは、このプロセス全体の理解の中で、育てていくもので、

「自分の頭で考えろ」と言うだけで育っていくものではない、ということだった。

ちきりんさんの「思考論」に100%納得した私は、自分が部下や後輩を指導するときには、度々取り出しては説明をしてきた。

そして、任せた仕事にエラーが出る場合、「プロセスのどの部分にエラーが起きているのか」を考え、その原因を取り除くようにしてきた。

長らくの間、ちきりんさんの思考論を使ってきましたが効果は抜群で間違いない。

ちなみに、ちきりんさんは「考えること」そして、それを言語化することは「人生でもっとも大事な趣味」と言っている。

スタジオジブリも「考えること」の本質を追求していた

先日、盛岡で行われていた「ジブリの大博覧会」に行ってきた。

ナウシカの王蟲(実物大で半端なかった)を見た後に展示されていた言葉が、強く印象に残っている。

嫌いなものや怖いもの、理解し難いものも、観察して分析すれば理解に近づく」

会場で購入したパンフレットの中に、王蟲の造形を担当された竹谷隆之さん(造形家)のインタビューがあり、これにはつよく心が動かされた。

今回の僕の仕事は、漫画や映画に描かれた蟲や植物を現実の世界に出現させること。

展示を見た人が「本当にいるのかも」と感じてもらえれば嬉しいですが、なによりこれを見たことで、生理的嫌悪感さえも「観察する」眼を持った瞬間に、たとえば「美しさ」を発見したり、前向きな「何か」に変換されるようなことがあれば、これ以上嬉しいことはないと思っています。

これはいろんなことに通じることだと。

さらに会場の中には、

表現の世界全般にあるのが「観察」なのかもしれない。 観察、分析、理解の先に「表現」がある。

と記されているパネルもあった。

「観察」することで情報収集をし、

収集した情報を「分析」することで、「理解」に近づくことができる。

そして「表現」はその後に出てくるものだと。

これをみた時、私はちきりんさんの思考論をハッと思い出した。

言葉は少し違えど、両者が言っていること、追求していることはほぼ同じ。

「考えること(思考)」の本質をとらえ、それを追求することで、多くの人が感動するアウトプットを作り出しているのだ。

表現を必要とする分野(現代はほぼ全て)で、超一流とされる人たちの秘密はここにあるのだと、東北の地で確信を得ることができた。

「考えること」においては「観察」が肝心

ジブリ展の後。

誰かに「考えること」を伝えていく時、意識することが変わった。

ジブリ展の前までは「考えること」を伝えたい場合、ちきりんさんの思考論を載せたコミュニケーションを意識してきた。

これで今まで特段問題はなかった。

しかし、プロセスの最初のステップを「情報収集」と伝えるのではなく「観察」する、とした方がより伝わるコミュニケーションになる、と思ったのだ。

なぜならば、二つの言葉は「観察」することで「情報収集」ができる、というA→Bの関係性にあるからだ。

つまり「観察」するという行為が、「情報収集」の駆動力になっている。

現代は「情報収集」が「情報収集する」のように動詞化して使われているため、今までなかなか気づかなかった。

実際、ちきりんさんの本にあるケーススタディはどれも「観察して情報取集している」ので、言わんとしていることは同じだと予想できる。

スタジオジブリの名プロデューサー鈴木敏夫さんは「宮崎駿さんは、想像で描かない。とにかくしっかりと「観察」をする。」と言う。

思うに、しっかりと「観察」するから詳しくなる。

詳しくなった状態で「分析」するとより詳しくなる。

そして、より詳しくなるから「自分の頭で考えられる」。

詳しくなることが、成功するための条件。

これがスタジオジブリが制作するコンテンツの強みなのかもしれない。

実際、「観察」を重視するようになってから、以前よりも「考えること」が「伝わる」にようになってきた。

ツイッターでも反応があった。

何事も最初が肝心とはよく言われることだが、考えることにおいては圧倒的に「観察」が肝心なのだろう。

以上、何か参考になれば。

Photo by igormiske on Unsplash

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田中 新吾
1986年生まれ。元マーケター。現在は、中小企業のコミュニケーションのクオリティや導線をデザインする「コミュニケーション・ディレクター」が主戦場。webメディア『Point of View』の執筆者/管理人。白湯を愛するサユラー。

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