どうも、田中新吾(@Shingo_tna)です。
巷では、タナシンとも呼ばれています。
複雑に考えてシンプルにとらえる、は僕にとって日常だ。シンプルにとらえたいのは、ただ単にそんなに多くの情報を記憶しておくことができないから。
考えるというのは、本を読んでいるとか、何かを調べたりとか、資料を作っているとかそういうのは全く「考えている状態」ではないと思っている。
「考えている状態」というのは、発見したことや感動したことを、図で関係性を表してみたり、バラバラにして優先順位をつけてみたり、他のものと組み合わせてみたり、5回のなぜをしてみたり、重要ではない部分を削ぎ落とし、本当に重要な部分を見つけだそうとすることだと思う。新たに問いを立てることも、思考していることになる。
そして、僕はこの時間がなぜだかとても好きだ。
数学者パスカルが残した有名な言葉がある。
人間は考える葦である
これは「人間の自然の中における存在としてのか弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表したもの」だが、僕の価値観形成に大きく影響している言葉だ。
「思考することにこそ人間としての価値がある」そう思い始めて随分と時間が経った。
何も考えていないひととすごく考えているひと
「思考力がある、ない」とかよく言うけれど、僕が思うに大事なのは「どれだけ考えたか」、つまり「思考の量」だと思う。
なぜなら、この世の中には「思考力の高いひと」と「思考力の低いひと」がいるわけではなく、「何にも考えていないひと」と「すごく考えているひと」がいるだけだからだ。
そして、全てのひとは「何にも考えていない」と「すごく考えている」を両極に置いた、同一直線上のグラデーションのどこかしらに存在しているということだと思う。
そして、ひとの話のおもしろさもこの思考量に比例している。
5分考えたことを5分話すひとと、100時間考えたことを5分話す人がいるからおもしろさは違って当たり前だ。今、5分かけて話したことは、一体何時間かけて考えたことなのか?
これが話していて面白いひととそうでないひとの差になっているだけで、とてもシンプル。
なんでもそうだが、やっぱり量が質を規定しているのだと思う。
さいごに
でも、思考は「幻想である」という考えも実は持っている。
それは、知らない場所に行ったり、今まで一緒に仕事をしたことがなかった人と仕事をすると、今まで考えていたことが嘘のようにコロッと変わることがあるからだ。
結局、自分の考えなんぞ、その程度のものなのだ。こうなってしまうとなんだか、今まで考えていたことが無駄に思うかもしれない。でもそれが「1歩前に進む」ということなのだと思う。
三歩進んだら二歩下がっていい。みんなそうだから。進んだら足りないことや必要なことに気付く。「一歩づつ進む」とはこういうこと。
— 田中新吾 (@Shingo_tna) August 14, 2018
「思考は幻想、行動が現実」
このことも忘れてはならないこととして。
それでは今日はこの辺で!