どうも、田中新吾(@Shingo_tna)です。
巷ではタナシンとも呼ばれています。
理解されるなんてことがあると思うのが誤解だ。むしろ、誤解をすすんで纏ってしまおう。
あの岡本太郎はこのような言葉を遺している。
誤解とは一般的には恐れられるもので、おおくのひとが誤解をされないように生きているし、誤解されてしまったならばその誤解を解こうとする。
気になって少し岡本太郎のことを調べていたら、人を強くし豊かにするのは誤解の分量であるとも言っており、生き方そのものがとても逆説的であることを知った。これはかっこいい。素直にそう思えた。
しかし、誤解をすすんで纏おうなんて「そうしよう」と思ってもすぐにできるものではない。
きっと常に誤解と戦い続けてきた岡本太郎だからこそ行き着いた境地なのだと思った。ちなみに、このこと自体が誤解である可能性は十分にある。
こんな風に考えれば考えるほど、岡本太郎の思考が本質的だと思えるようになっていった。理解されるなんてことがあると思うのが誤解であると。
現時点での僕の考えはこうだ。
人と人との間にあるのは「誤解」だけであって、たまたま意見の一致を見たとしても、それは狂った時計同士でも同じ時を指す瞬間があるのと同じこと。他人との理解とか一致を求めれば求めるほど、実は本質から遠ざかっている。ちなみに岡本太郎は「誤解の分量」が、ひとを強く豊かにすると言ってます。
— 田中新吾 (@Shingo_tna) September 7, 2018
誤解が前提である、と考えるようになってからは幾分か肩の力が抜けた。
さいごに
この週末は西湖でキャンプをしていた。
キャンプ場で飲むインスタントコーヒーは味はともかく味わい深い。 pic.twitter.com/1UwPbRCFuF
— 田中新吾 (@Shingo_tna) September 8, 2018
確かに誤解だらけで理解することはなかった。でも、共感は数えきれないほどした。
人は狂った時計とおんなじ、それでも分かり合えたりするのは心で分かる共感があるからなんだろうなと改めて感じた。
ここまで読んでくださった方々にとって、この記事が何かしらの参考になれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。