自分を動かす

「受け取った知見(贈与)」を世の中に正しく届けるためには。

私は記事を書くときに、「伝えたいことを証明したり補強する理論やデータ」があるかどうか下調べをして、その内容を示すようにしている。

こうしているのは「独善的な思い込みほど見苦しいものはない」と思うからだ。

したがって、伝えたいことがあるならば、証明できる事実を提示し、「客観的に補強をする」というルールを自分に科している。

具体的にいうと、書いたことについてはできるかぎり「客観的な裏付けをとる」。そして、この客観的な裏付けは書籍のような「文献として価値のあるもの」からとってくるようにしている。そしてそれを明示する。

裏付けとなる理論やデータがきちんとした形で示せていれば、「独善的な思い込み」だけでは届くことのない人々にまで届けることも可能になるかもしれないからだ。

ところが、最近になってこの「客観的な裏付けをとる」ことが、「贈与論的にも正しい」という新たな視点が加わった。

贈与論」は若手哲学者の近内悠太氏の著書に詳しい。

この本の中で、近内氏は「自身が受け取った知見を世の中に正しく届けるためには、自らが贈与の起源になってはならない。よって、先行する贈与があったという事実を示す必要がある」という一つの結論を述べている。

「自らが贈与の起源になってはならない」

「先行する贈与があったという事実を示す」

一体どういうことなのか、追って書いていこう。

「贈与」とは、お金で買うことのできないものおよびその移動

お金では買えないもの

これはたしかによく耳にする言葉である。

しかし、お金では買えないものは一体どうやって手に入れたら良いのか。

お金では買えないものはいったいどこから私たちのもとにやってくるのか。

たとえばの話、

「腕時計」をどこかのお店で自ら購入したとすれば、それ自体はただの「モノ」にすぎない。

この世界にただ一つしかない特別な腕時計などではなく、他の誰でも対価さえ支払えば購入することができるモノだ。

ところが、その腕時計が親しい人から「贈り物」として手渡しされた瞬間、つまり「プレゼント」された瞬間に事態は一変する

その時計を壊してしまったり、無くしてしまったりすれば、負い目を感じて、相手に対して申し訳ないと感じたり、「なんでもっと丁寧に扱わなかったんだろう」とひどく公開をしたり、落としたと思われる場所まで探しに行ったりするはずだ。

相手からすれば「たかが時計だろ? 何十万円もするわけでもないし」と思っても、自分にとっては大変ショッキングな出来事になる。

プレゼントされた時計も、自分で購入した時計も、モノとしては等価であるはずだが、私たちはそれをどうしても同じモノとして思うことができない

つまり、商品としての価値から「はみ出す何か(つまり余剰)」があると無意識に感じるのだ。

近内氏は、この「余剰」こそが「お金で買うことのできないもの」だという。

なぜなら、余剰とは「誰かから贈られた瞬間にはじめてこの世界に立ち現れる」ものだから、と述べている。

つまり「お金で買うことのできないもの」こそが「贈与」なのだ。

この主張には直感的にも納得がいく。

そして、贈与は市場経済の「すきま」に存在している

「贈与は僕らの前に、不合理なもの、つまりアノマリーという形で現れる」という話をこれまでしてきました。しかし改めて考えると、それはなぜでしょう?

それは現代社会が採用しているゲームが等価交換を前提とし、市場経済というシステムを採用しているからです。

第2章で述べたように、資本主義はありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。

だから、僕らの目の前には、購入された商品と、対価を支払ったことで得られた「サービス」が溢れているわけです。それらで覆い尽くされていると言ってもいいでしょう。

しかし、だからこそ、その中にぽつんと存在している「商品ではないもの」に僕らは気づくことができるのです。

他者から贈与されることによって「商品としての履歴が消去されたものも、サービスではない「他者からの無償の援助」も市場における交換を逸脱する。それゆえに、僕らはそれに目を向けることができ、それに気づくことができるのです。

だから、贈与は市場経済の「すきま」に存在すると言えます。いや、市場経済のシステムの中に存在する無数の「すきま」そのものが贈与なのです

要するに、「贈与」は、市場経済という「等価交換」を前提としたシステムがあるからこそ存在しえるもので、市場経済を否定していなくむしろ「必要」としている、ということだ。市場経済がなければ存在しえない。

また、交換が支配的な社会には「信頼関係」が存在しないため市場経済も贈与を「必要」としているという。

「信頼」は交換の中からではなく「贈与」の中からこそ生じるものなのだ。

「贈与」は、受け取ることなく開始することはできない

さらに、贈与には「受け取ることなく開始することはできない」という大原則が存在する。

一体どういうことなのか?

これを突き止めるには、「ペイ・フォワード」という2000年に公開された映画が格好の材料となる。

私も以前観たことのある映画だったが、近内氏の考察でこの映画から得られる教訓がほぼ完璧に腑に落ちた。

フリーの新聞記者クリスが降りしきる雨の中、事件現場に駆けつける場面でこの映画は幕を開ける。

最近不調が続いていてイラついていたクリスは今回の件が挽回のきっかけになると思い取材を開始したところ、逃走する犯人に車をぶつけられてしまい途方に暮れていると、そこへ弁護士だという一人の紳士が現れる。

その弁護士はなんとクリスに向かって新車を譲渡するといって鍵を渡す。わけが分からず訝る(いぶかる)クリスに紳士は「赤の他人からの善意」だといってその場を立ち去った。

それから数日後、クリスは記者の性分もあり真意を聞き出そうと紳士の元を尋ねた。

すると弁護士は、自分の娘が発作を起こし病院に行ったところ見ず知らずの男性が娘に順番を譲ってくれたエピソードを話してくれた。

紳士はお礼がしたいとその男性に伝えると「お礼はいいから、次へ渡しなさい」と告げられたという。

自分ではなく誰か別の3人に「善い行い」をすることで恩を返すようにと。

紳士からこの話を聞いたクリスは、順番を譲った男性患者を次に訪ねる。

そして、その次に患者への贈与の主を訪ねる。

というように、先行する贈与者を順に突き止め、「次の3人に渡せと最初に告げた人物」まで贈与の流れを遡っていく。

そして、その最初の人物こそがこの映画の主人公である「トレバー少年」だったのだ。

トレバー少年は、シモネット先生の授業で与えられた「世界を変えるを方法を考え、それを実行してみよう」という課題に対して、「善い行いを受けたら3人にパスする」という「ペイフォワード運動」を思いつき、それを実行した。

少しづつ町中に「贈与のフロー」が広がっていくさまが描かれるこの物語は意外でショッキングな結末を迎える。

ようやくトレバー少年にたどり着いた新聞記者クリスは、トレバーの学校を訪れ彼にインタビューを行う。

ところがその直後、トレバーは友人が同級生からいじめられているのを止めに入ろうとして、ナイフが弾みで刺さってしまい命を落としてしまうのだ。

「贈与の起点」となった少年が、命を落とすという結末の映画。

しかし、これは単に物語を盛り上げるための仕掛けでもなんでもない。

ましてや「善意は必ずしも報われない」だとか「人のために何かをするというのは手放しで素晴らしいことだ」といった「凡庸な教訓」を引き出すためのものでもない。

この結末に対して、近内氏は「贈与の構造を考えればこうならざるを得なかった」と自著の中で述べている。

実はトレバーは、柔らかな毛布に包まれるような愛を知らずに育っていたのだ。

つまり、少なくとも本人の主観的には、贈与を受け取ったという実感を持つことができていなかった。

そして、これこそが結末の「謎を解くポイント」になっていると近内氏はいう。

なぜ、トレバーが殺されなければいけなかったのか?

それは彼が「贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまった」からなのだ。

つまり、「贈与」とは、受け取った贈与に気付き、その負い目を引き受け、その負い目に衝き動かされて、また別の人へと返礼としての贈与をつなぐことしかできない

ゆえに「贈与の流れ」に参入するには、受け取っている「被贈与」に気づく以外に方法はないのだ。

だからこそ、もしもトレバー少年が誰かから何の合理的根拠もなく恩や愛を受け取り、それを痛いほどに理解して、こう宣言することができたなら、彼は死なずに済んだはずだ。

ペイフォワードは僕がはじめたわけじゃない。ペイフォワードはずっと続いている」と。

贈与は受け取ることなく開始することはできない」こそが、映画「ペイフォワード」から得られる大事な教訓であり、贈与における大原則だったのだ。

「先行する贈与」があったという事実を示す

近内氏はこの大原則にしたがい、「自身が受け取った知見を世の中に正しく届けるためには、自らが贈与の起源になってはならない。よって、先行する贈与があったという事実を示す必要がある」という結論を導いている。

自身が受け取った知見を世の中に正しく届けるためには、自らが「贈与の起源」になってはなりません(映画「ペイ・フォワード」のトレバー少年は、自らが起源であると暴露してしまったがゆえに贈与に失敗したのでした)。

だから、先行する贈与があったという事実を示す必要があるのです。

本の「あとがき」では執筆にあたってお世話になった方々への感謝を述べたり、参考や引用を注釈に記すことが通例となっているが、これはまさに「贈与論的に正しい」といえる。

実際、優れた物書きは「先行する贈与があったという事実」を伝えることに抜かりがない。

たとえば、ブロガーで精神科医のシロクマ先生は、自著の出版後、ご自身のブログでも執筆にあたり先行する贈与があったことをきっちり述べている。

おかげさまで、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は重版となりました。8月10日現在、Amazonでは売り切れ状態となっていますが、前より本屋さんで取り扱っていただけているので、本屋さんで見かけた折には、是非手に取ってみてやってください。
 
この本は、私が書きたかったことを85%の純度で書けた稀有な本なので、私自身、再読するとつい面白いと感じてしまいます。ですがその面白さの大半は、参考にした書籍や文献の面白さに由来するものだと思っています
 
宣伝もかねて、今日は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の参考文献から興味深いもの・恩義を感じているものをいくつかご紹介します。どれも、当該分野について興味を持っている人ならきっと楽しめる良書に違いありません。おすすめです。

これまで、私の中にある知見はすべて受け取ったもの(=贈与)から出来ているという自覚はしてきたつもりだが、近内氏の本を読んで、知見を「世の中に(贈与として)正しく届けるための方法」については視点が不足していたことに気付いた。

だからこそ、「先行する贈与があったという事実を示す」は私にとって遥かに大きな発見だった。

この記事においては、私が「差出人」になるわけだが、誰の元に届くかどうかなんて私にはわからない。

でも、この記事を偶然読んだ誰かが何かを知るだけでなく、今まで受け取ってきた「贈与」に気付くようなきっかけに少しでもなったらいいなと祈っている。

【著者プロフィール】

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中小企業やローカル事業者の、新たな価値の発見や再定義(ValueDesign)、言語化やデザインによる価値の見える化(ValueCreative)、価値に人が集まる仕組みづくり(ValueMarketing)に精力的に取り組んでいます。

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田中 新吾
現場と文献からの学びを発信してます。 価値の定義(ValueDesign)× 価値の見える化(ValueCreative)× 価値を届けること(ValueMarketing)が主なしごと。 視点をつくるWebメディア「Point of View」の執筆者/管理者。

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