コミュニケーション

こんな状況だからこそ、コミュニケーションに「身体性」を取り戻そうと思い始めた。

最初に、今年になって私が大変感銘を受けた一冊の本の紹介から。

それは過去の記事でも何度か取り上げている「身銭を切れ」というものだ。

そして、この「身銭を切れ」という言葉はなかなか頭から離れず、ついには行動の指針にもなってしまった。

乱暴に要約すると、「ブラックスワン」の著者ナシーム・ニコラス・タレブが、身銭を切らない連中に対して、渾々と「身銭を切らないヤツはクソだから、身銭を切りましょう」と述べている。

これが著者の一貫したテーゼだ。

そして、自分の意見にしたがってリスクを冒す人には価値があるとして、その内容に関わらず最大の敬意を示す。

「身銭を切れ」とは実に単純明快だ。

しかしそれでいて「自分がしてもらいたいことを、他人にせよ」という聖書にある言葉のように深くて重く本質的である。

そのせいで、「身銭を切れ」という言葉がなかなか頭から離れないのだと思っていた。

ところが、最近より核心に迫る情報を手に入れた。

「身銭を切れ」は、「からだ言葉」という身体を意識させる性質を纏っていた

それは「動きが心をつくる」という身体心理学の本の中に示されていた。

この本は「行動が心を作る」という観点から心理を説いたもので、一般的には動物は、脳があって心があると言われるが、それに反論するものだ。

原初動物には、動き(行動)があって、それに伴い体が内臓や脳というように細分化していったことから導かれる、「脳だけが心(意志)ではなく、動きに心の原因がある」は、真に慧眼だと言える。

そして、この本の中で特段の発見だったのが、「からだ言葉」という「言葉のカテゴリー」の存在だ。

「からだ言葉」とは体の部位を含んだ言葉で、その数はおおよそ「6,000語」もあるらしくそのバリエーションの豊さには舌を巻いた。

「からだ言葉」については以下に詳しい。

からだ言葉とは、体の部位を含んだ言葉のことである。

たとえば最近あまり使われていないが、かつては銀行の社長のことを「頭取」と表現していた。体の部位である頭を使った言葉である。

頭は体の一番上にあるので、組織のトップである社長を表すことになったのであろう。年のはじめのことを「年頭」という。これも頭の位置からきたものであろう。同じように最初に払うお金を「頭金」という。

これらの言葉は頭が持つ性質を用いたものであるが、このほかに頭の動き、あるいは状態を用いた言葉がある。

「あの人には頭が上がらない」といって、他人に対する自分の態度を表現することがある。世話になった人とか対等の態度をとれない人に対して使う。

これは上位の人に対して頭を下げる行為(へりくだる動き)からきていると考えられる。これは頭の動きを利用した言葉である。

物事に「没頭する」という言葉も同じである。夢中になって物書きをしている人、あるいは物を作っている人の姿勢からきた言葉であろう。そうした状態の人の頭はまさに前かがみになっている。

実際、私たちはこのような「からだ言葉」を日常何気なく使っている。

ところが、「からだ言葉」という言葉のカテゴリーの存在は認識しておらず、その意味については、「ほとんど意識していない」という人が大半だ。

かくいう私もそのうちの一人である。

こうした現状に対して、著者の春木氏は「からだ言葉」の持つ役割について見直すことを提案している。

それはどういうことか。

たとえば、「毎月の過ぎ去る速さ」を意味するとき、「年月が速やかに過ぎる」でも、「年月が足早に過ぎる」でも意味するところは同一である。

ところが、早く過ぎていくことの実感は「後者」の方が強い。

それは、足早で歩くときの感覚とあせる気持ち、つまり早足で歩くときの気感(気分・感覚)が、過ぎ去る様を如実に、実感を込めて表現しているためだ。

体、動き、心を一つに込めた日常の経験から成り立つ「からだ言葉」は、「感情の伝達」に優れている。そして、それは「身体を通す」からこそ生まれる感覚だという。

「からだ言葉」とはまさに、「動きが心をつくる」なのだ。

春木氏は、現代の言葉によるコミュニケーションが「知的な情報伝達」に偏り、本来持っている「感情の情報伝達」が薄れていることを危惧する。

だからこそ「からだ言葉」の持つ「感情の伝達」という役割をもう一度見直してみてはどうかというのだ。

これらを統合するに、「身銭を切れ」がなかなか頭から離れずにいたのは、そのテーゼの本質性はさることながら、「からだ言葉」というボディを纏っていたのも大きな要因となっていたのだ。

自分の身体(あるいは自分)を意識させる言葉は、他の言葉に比べて記憶として定着しやすい

試しに自分の記憶に「からだ言葉」で検索をかけてみると、したのような慣用句や諺が検索された。

で言え」

にはを、にはを」

ほどに物を言う」

「今日は人の上明日は我がの上」

「蝋燭はを照らして人を照らす」

「相は変われど主は変わらず」

私は決して記憶力が良いとは思わないがこれらが、

・長期記憶として残っていたこと

・割りかし素早く記憶から引き出せたこと

を考えると「身銭を切れ」同様に、「からだ言葉」の力を感じずにはいられない。

他にも思うところはある。

私は「身銭を切れ」のように単純明快で短いタイトル以外は、読んだ側から忘れてしまう。ところが「自分を意識させる」タイトルはなぜかよく覚えている。

そしてそれは、「身銭を切れ」同様に行動の指針にもなっている。

たとえば、

社会派ブロガーちきりんさんの「自分の時間を取り戻そう

スタジオジブリ石井朋彦さんの「自分を捨てる仕事術

これらは「人が興味を持っていること=圧倒的に自分のこと」だからというのもあるとは思うが、「自分」という言葉にも「からだ言葉」のように身体から心にアプローチする性質がある、という見方もできる。

いずれにしても、自分の身体(あるいは自分)にアプローチし心を触発する言葉は、他の言葉に比べて記憶として定着しやすいと言えそうだ。

説明のプロは、コミュニケーションに「身体性」を取り入れている

ちなみに説明のプロも「身体性」を意識してコミュニケーションをする。

説明の仕方を多くの学生に指導してきた明治大学部文学部教授、斉藤孝氏の「説明技術」は教訓だ。

斉藤氏は、一般的に難しいとされる「論語」を読んだことがない人に説明する際に、「絞った要約」と「身体感覚」を用いると言う。

説明の流れはしたの通りだ。

孔子は「仁義礼智忠心孝悌(じんぎれいちちゅうしんこうてい)」というような徳を説いた人だが、論語を読んだことがない人にこれをすべて説明しても、内容に入り過ぎてしまって理解することができない。

そこで「孔子が説いたのは知仁勇です」というように「絞って要約」して説明する。

「知(智)」というのは知性、判断力

「仁」というのは真心があって誠実で優しいということ

「勇」というのは勇気、行動力のこと

ところが、これを身に付けることはとても難しい。

だからこそ「知仁勇の三つを、一生かけて身につけていくことを孔子は説いたのです」と説明をする。

そして同時に「自分の手のひら」を「知仁勇」に対応する部分に当ててもらう。

まず、「前頭葉のおでこ」のところを「知」と言いながら触れる。

次に「仁」は優しさであり、「」に手を当てる。

そして「勇」は臍下丹田(せいかたんでん)、「おへその下」に手を当ててもらう。

こうすると「たしかに前頭葉は知性で重要だ」「真心は胸にあるな」「おへその下には昔から勇気の場所があると、武士道では言っていたな」というように思い出したり、考えたりし始めるというのだ。

おでこや体に手を当てるという身体感覚と結びつくことで説明することを分かってもらえる」と斎藤氏は述べている。

これもまさに春木氏のいう「動きが心をつくる」ことだと言えるのではないだろうか。

こんな状況だからこそ、コミュニケーションに「身体性」をぼちぼち取り戻そうと思う

現代社会では「わかりやすさこそ是」「わかりやすさは正義」とされ、「わかりにくい」情報には見向きもされないばかりか、排除や矯正の対象にもなる。

結論から言う」や「PREP法を使う」は、わかりやすさを追求した結果、私達が手にしたコミュニケーション技術の代表格と言えよう。

コンサルティング会社では、あらゆるものが、「結論から」のフォーマットに沿っていました。

そして、常にそれを意識するよう、すべてにおいて徹底されていました。コンサルティングの報告書はもちろん、日常のメール、メモ書き、上司とのやりとり、すべて結論から言うことが徹底されていました。

こうすることのメリットは、やはり、物事がシンプルに明確になるということです。それにより、短い時間で相手に必要なことを伝えることができます。

このような「わかりやすさの追求」は人類の本能的な営みであり、この追求は未来永劫無くなることもなければ止まることもない。

つまり、意識することをしなければコミュニケーションは「知的な情報伝達」に大きく偏ってしまうということだ。

思うに、「直接会うコミュニケーション」が主流だった今まではこれでもよかった。

なぜなら「感情の伝達」は、言語以外の「非言語情報が十分に補足してくれていた」からである。

諸説あるが、もっとも有名な「メラビアンの法則」を例にすれば、言葉だけで伝わる情報は「30%」だと言われており、コミュニケーションにおける「非言語情報」の貢献度は私達が認識している以上に偉大だ。

ではこれからの時代はどうだろうか。

オンライン中心のコミュニケーションでは、私達がこの非言語情報による恩恵にあずかれる機会は減少傾向となり、感情伝達に課題が残る。

私はこんな状況だからこそ「コミュニケーションに身体性を取り戻す」ことが必要なのかもしれないと思い始めている。

「からだ言葉」に出会ってそのことに気づかされた。

というわけで、まずは日常的に「からだ言葉」を意識して、語彙を増やすことからぼちぼちとやっていこうと考えている。

そのお供となるのは東郷吉男氏が編纂した「からだことば辞典」だ。

私たちは生きている。

そして、生きている人間にとってもっとも大切なのものは「からだ」だ。

そのからだについて、古来私たち日本人はどんな捉え方をしてきたのだろうか。

この問いの中に、これからの時代をニコニコ楽しく生きるための知恵がたくさん詰まっているように私は思う。

以上、何かの参考になれば。

Photo by Markus Winkler on Unsplash

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田中 新吾
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