コミュニケーション

自分がいなくても社会は何事もなく回るが、いるからには「誰かの役に立とう」と思う。

先日、はてな匿名ダイアリーでしたのような記事を読んだ。

仕事辞めて数年経った友人が老害みたいになってきてつらい

タイトルが全てなんだけど。

激務な代わりに収入も貯蓄もあって5-10年は引きこもれると言ってた友人が家庭環境の変化で仕事を辞め、その後家庭の問題も落ち着いて、「ずっと忙しなかったし少しのんびり趣味でもやって過ごすわ」となってから数年。

最初の1年ぐらいは楽しげに趣味に生きてて「いいなー、羨ましいなー」とか話してたけど、2年目の途中ぐらいから如何にもネットがどこかで拾ってきたような浅い知見を披露することや、著名人を含め他人を非難するような発言が増えてきた。

3-4年ぐらい経った今となっては話しててもすぐに何かの批判になったり、自分の経験だけから何かを決めつけるような発言が増えて、話すのもしんどくなってきた。

元々は大らかでやたらと自慢したり他人をすぐに批判したりするようなタイプではなく、また忙しいながらも色々な本を読み、「賢者は歴史に学ぶ」のように思い込みを排除して判断しようと努めるようなタイプだったのに。

また、彼の変化も残念なんだけど、仕事を辞めてどうしても他人との関わりが減ると、人間、ネット等のパッと見やすい意見に流されてこの様になってしまう者なのだろうかと、早期引退を考えそれなりに貯蓄等している自分も怖くなってきた。

人間とはこういうものなのだろうか。

それとも彼が特別なのだろうか。

また、彼に前のように戻ってもらう方法はないのだろうか。

誰か知っていたら教えて欲しい。

将来は隠居して読書と美術鑑賞に耽りたい」と割と真面目に考えていた私にとってこれは他人事ではなく、読んだ時には背筋がピンと伸びた。

結局のところ、人間という社会的な動物は、何かしら社会と関わって、誰かの役に立ってる感を得てないと「ダメ」になるのだ。

これに尽きる。

以前、主人公が「人を助けることをやめたら腐敗する」という設定の漫画を読んだことがある。

この「幻覚ピカソ」のように、ダメになるというか「腐っていってしまう」という方が適当なのかもしれない。

今までの話の流れに逆らうようだが、ここから「人は誰でもこの社会には必要がない」という厳然たる事実について記す。

この事実は、「自分は重要な存在だ」と思いたい私たち人間にとって、心情的には非常に受け入れ難く不都合なことなのだが、誤解を恐れずに言えば、私も含め世界中の誰もがこの世の中には必要がない

いなかったとしても社会にとってはなんら問題はないのだ。

私がこの事実をはっきりと知ったのは、前職のマーケティングコンサル会社を辞めた時だった。

退職をしようと決意した時点で、私は優良なクライアントを多数抱えており、それがチームひいては全社にとって大きく貢献をしているという認識をもっていた。私だからできる仕事であり、つくれる関係性だとも自負していた。

さらに、管理職でもあったことから「私が辞めることで大きな穴があくのではないか?」という気がかりがあったのは紛れもない真実だ。

しかしだからといって、辞めるのを止めたわけでもなく結局自分の意思を貫き退職したわけだが、その結果は辞めても「何の問題もなかった」。

要は、私が辞めた後も会社は何事もなかったかのように普通に回っていたのだ。

この時私は「自分がいなきゃ回らない」だなんて甚だしく思い違いで、「人は誰でもこの社会には必要がない」ことを実感とともに知った。

たとえ私が今日死んだとしても、周りに迷惑はかけるだろうが、それで「死ぬほど困る」という人は一人もいない。

ましてや社会全体は、何事もなかったかのように普通に回っていく。

社会にとって、私の存在など本当にどうでも良いことなのだ。

こんなことを言うと、「うつになりそうだ」と思う人もいるかもしれないが、逆にこの事実から目を背けている人ほど、「うつになる」と私は思う。

私は過去に何度か接した経験があるのだが「うつ」になる人は、「人は誰でもこの社会には必要なはずだ。でも、私は必要とされていない」と考えている傾向が強い。

これは確かにいきなり受け入れろと言われても難しいことかもしれない。

でも、いくら目を背けてもこの事実がなくなることはないので、認めて受け入れる努力をできるかぎりはしたいところだ。

人は誰でもこの社会には必要がない」を受け入れることができたとしよう。

しかし、その状態のまま放っておけば「自分はこの社会には必要がない」という思いだけがただ強くなり、そのまま腐っていってしまう。

だからこそ人間には「誰かの役に立つ」ことが必要なのだと思っている。

そして「誰かの役に立つ」こと、つまり自分ではない他人を喜ばせることこそが「幸せ」なのだ。

むしろ、人間にとっての本当の幸せはここにしか存在しない。

考えてみれば誰かの役に立つことはこの社会のそこら中に転がっている。

例えば私は、駅員さんに尋ねごとをした時に、必ずしっかりと「ありがとうございました」や「助かりました」と伝えるようにしているし、コンビニ店員さんにしても、商品を受け取る時に「ありがとうございます」を伝える。

なぜかと言えば、こうするだけで多少はその人も気分が良くなってくれると思うからだ。もしかしたらそうはならないかもしれないが、それでも私はする。

こうやって4,000字以上の記事を度々書いているのも、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないという思いに他ならない。

こういう小さな積み重ねを淡々とするのみだ。

最近、自分の仕事をブルシット(クソどうでもいいもの)だと感じている人たちの膨大な告白に基づいて書かれた「ブルシット・ジョブ」という本を読んだ。

ページ数が多くまだすべてを読むことができていないのだが、「労働の価値」について本質的なことが記されているページを発見した時は思わずハッとしてしまった。

思うに、この部分が本のテーゼにあたる。

労働とは、槌で叩いたり、掘削したり、滑車を巻き上げたり、刈り取ったりする以上に、ひとの世話をする、ひとの欲求や必要に配慮する、上司の臨ことや考えていることを説明する、確認する、予想することである。

植物、動物、機会などなどを配慮(ケアリング)し、監視し、保守する作業についてはいうまでもない。

(中略)

仕事の大多数が厳密にいうと生産的であるよりはケアリングであり、だれの目にも非人格的であるような仕事にすらケアリングの要素がつねに潜んでいると認識することは、別の規則をもった別の社会をつくることがなぜかくも困難であるのかという問いへの、ひとつの応答となりうる。

(中略)

わたしたちのほとんどの行為の意識された目的が、他者(たいていは具体的な他者)を思いやることにあることに変わりはない。

わたしたちの行為は、ケアリングの諸関係に絡めとられているのである

要するに、実質的にいかなる労働の形態であろうとも、結果として他者のニーズを満たすのに役に立つ活動になるという意味で、「ケアリング」こそが「労働」の「本質」ということだ。

労働の価値をそれが生産的であるかどうかで考えること、生産的労働の典型を工場労働として考えることは、ケアリングのすべてを抹消してしまう。

橋をつくることであっても、その根底には川を横断したい人びとへの配慮(ケアリング)があるのだが、「ケアリング」は数値化することができないため「生産性」には結びつかないという理由で、現代社会はそれを見ようとしていない。

思うに、この「ケアリング」という要素こそがAIや機械によって代替することができない部分で、また休むことさえも許されないという事実を新型コロナウィルスは私たちに突き付けたのだ。

「ブルシット・ジョブ」という本は、「ケア」をケアワーカーというような職種としてとらえるのではなく、労働における重要な「成分」としてとらえ直すことで、これからの社会における「労働の価値を再定義しようとするキッカケ」を私たちに提示してくれている。

重要なことだからあらためていうが、人は誰でもこの社会には必要がない。

しかし、誰もがこの前提に立ち、「誰かの役に立つ」ことすなわち他者(人間、動物、風景など)への「ケアリング」をしていくからこそ、真っ当な社会は築かれていく。

企業の売上にしても同一だ。

たくさん稼ぎたいと考えると「売り上げ規模」をスケールしようと考える。これは別に悪いことではないし普通に誰もが思うことだ。


しかし、どこかこれに違和感を感じる自分がいるのは売り上げ規模のスケールというのは「結果」でしかないからだ。


この結果の前には必ず「誰かの役に立つ」すなわち「ケアリング」という過程がある。つまり、誰かの役に立つ規模をスケールさせるからこそ、売り上げ規模がスケールするのだ

「誰かの役に立つ」ことをしない時間が続けば、それにつれて腐敗は進みやがては社会にとっての「害」と成り果てるだろう。

こうなった時が、「本当にお前はこの社会には必要がない」という烙印を押されてしまう時なのかもしれない。

自分がいなくても社会は何事もなく回る。

でも、この社会にいるからには「誰かの役に立とう」と私は思う。

腐ってなんかはいられない。

Photo by juan pablo rodriguez on Unsplash

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